この記事は元々、2018年に発覚したスルガ銀行の「投資用アパート・マンション向けの不正融資」問題を受けて書いたものです。あれから8年が経過し、オーナーとの調停は一応進んでいるようですが、全面解決は見通せない…そうです。
スルガ銀行不正融資「アパマン問題」の泥沼、オーナー350人が調停に合意したが全面解決は見通せない理由 | 金融インサイド | ダイヤモンド・オンライン
長期化するスルガ銀行による投資用アパート・マンション向けの不正融資に関わる問題(アパマン問題)が、新たな局面に入った。同行は3月18日、裁…
問題は不正融資にとどまりません。「地銀の優等生」だったはずのスルガ銀行で横行していた、パワハラ(の枠を超えた暴力行為)、顧客に対する詐欺、着服など次々と犯罪行為、不祥事が明るみに出ました。これは、そんなニュースを見ながら「そういえばスルガ銀行って城東電気軌道のことを調べた時にかすっていたな」と思って書いた記事です。調停関係で久々にニュースを見かけたのでリバイバルいたしました。
スルガ銀行沿革史
といいつつスルガ銀行に直接つながる話ではないので、導入部はWikipediaでさっさと済ませてしまいましょう。
スルガ銀行株式会社(スルガぎんこう、英称:Suruga Bank Ltd.)は、静岡県沼津市に本店を置き静岡県・神奈川県を主たる営業エリアとする日本の地方銀行である。実店舗は五大都市圏でも展開しており、ネットバンキングでは全国展開している。沼津市の指定金融機関。
出典:スルガ銀行
注目すべきは、静岡県と神奈川県を営業エリアとしていることです。昭和初期に地方銀行は「一県一行主義」の下に統合が進められ、その方針は平成に入るまで維持されていたのですが、スルガ銀行は創業初期からずっと2県にまたがって営業をし続けてきた数少ない「例外」で、これは同社の「会社沿革」でも独自性を示すエピソードとして誇らしげに書かれています。
2018年の不祥事により引責辞任した会長の岡野光喜氏は創業家出身です(2016年に同じく辞任した米山氏に社長の座を譲りますが、なんと彼は創業以来初めての創業家出身者以外の社長でした)。問題を受けて設置された第三者委員会の調査では、スルガ銀行は創業家の関連会社に対して数百億円規模の使途不明金を含む融資を行なっていたことが判明しています。
岡野光喜氏の曽祖父にあたる岡野喜太郎が根方銀行を設立したのが1895年、資本金1万円、社員数名で当時、日本一小さい銀行だったそうです。翌年には駿東実業銀行に改称して駿東地域(現在の沼津市、御殿場市など)に事業エリアを広げます。更に伊豆、神奈川へと店舗拡大を続けたことで、1912年により大きな地域名を冠した駿河銀行に改称したという歴史があります。
ここから立て続けに他行を合併する拡大戦略が始まるのですが、その第一弾が神奈川県足柄下郡吉浜村にあった吉浜銀行でした。

皮だけ残った吉浜銀行
吉浜銀行は、1898年9月8日に神奈川県足柄下郡吉浜村に資本金10万円をもって設立され、足柄下郡(現在の箱根町・真鶴町・湯河原町)唯一の銀行として、小田原支店と湯ケ原出張所を営業していましたが、明治末には経営不振に陥ってしまいます。
ここで助け舟を出したのが駿河銀行です。1913年に合併し、小田原支店は駿河銀行小田原支店になります(スルガ銀行サイトには1912年とありますが、これは合併契約締結の年なのかな? 営業譲渡は1913年3月です)。つまり、吉浜銀行を足掛かりに小田原進出を目論んだわけです。
はい。ここでスルガ銀行の話は終わりです。
吉浜銀行の名前は、京成電気軌道社長本多貞次郎が城東電気軌道と並行して進めていた江東電気軌道について調べていた時に、1911年出願時の発起人に関係者がいたことで知りました。
江東電気軌道
城東電気軌道が特許された直後の1911年11 月に本多が出願した第3の路線。隅田村字三才(現在の東武鉄道堀切駅付近)を起点とし、本所区押上、錦糸町と江東地域を縦断しながら砂村新田字元〆(現在の江東区南砂2 丁目交差点付近)に至る環状線。
ところがこの吉浜銀行、既存の業務全てを駿河銀行に譲渡したにもかかわらず、消滅しませんでした。
吉浜銀行を譲受したのが、同行の専務取締役で東京市会議員だった酒井泰です。酒井は日東銀行に改称し本店を東京市に移転しますが、彼には(名義上、取締役ではあったが)銀行を経営した経験がなく、金融恐慌の影響もあって事業はすぐに行き詰まってしまいます。
事業の継続が困難になった酒井は、同じく江東電気軌道の発起人で亀戸町長だった鶴岡英文です。もっとも鶴岡にも銀行の経営経験はありませんから、別の人に相談をします。
橋本梅太郎と浅野財閥
ここで登場する新たなキーパーソンが、大正前期の城東電気軌道計画の中心人物だった橋本梅太郎なのです。彼については『城東電気軌道史』で詳述したので、そのまま引用しましょう。
橋本梅太郎は1871 (明治4) 年12月、福岡県藩士・橋本往来の⾧男として生まれた。
長崎県の鎮西学館で語学を学んだ後、渡米し、シテサンノーゼ中学、次いでジョージタウン大学を卒業。米国の法学修士、米弁護士免許を取得した。
その後、渡米と帰国を繰り返しながらニューヨーク生命保険九州支社長、セントルイス万国博覧会日本出品即売部主任、米グランド・トランクレールウェイ工事監督などを歴任し、1908 (明治41) 年に帰国して実業家となる。
橋本は1910 (明治43) 年3月、東洋汽船の株主総会で経営不振の責任を問われていた社長・浅野総一郎に「踏み留まって責めを果たして貰わなければならぬ」と演説し、留任させたことで浅野の知遇を得た。
相談を受けた橋本は、城東電気軌道と並行して進めれば双方の利益になると考えて引き受けますが、日東銀行という名称は気に入りませんでした。この頃、日本精糖の贈賄事件「日糖事件」が起きており、同じ語音ではイメージが悪いと考えたのです。
そこで着目したのが、島津家の機関銀行として1873年に設立された第五銀行(設立時は第五国立銀行、1896年に改称)です。数字が名称に入るいわゆる「ナンバー銀行」は明治初期に設立された国立銀行の証であり、由緒正しい名称です。第五銀行は1898年、第三十二国立銀行から改称した浪速銀行と合併し、名称が空いていたため、同行から名称使用権を譲り受け、縁もゆかりもない名称に改称したのです。
橋本は1913年5月6日に第五銀行を開業し、葛西、大島、松江、小岩、瑞江、浦安の地元有力者を代理店に任命して普通、貯蓄業を展開しました。ここで集めた資金を城東電気軌道に出資する目的だったと思われます。
転がる第五銀行
しかし城東電気軌道計画は資金不足で、既に暗雲が立ち込めつつありました。地元の資金だけでは足りないと考えた橋本は、鶴見に建設中の曹洞宗大本山総持寺に目を付けました。第五銀行は総持寺に投資し、総持寺は各地の檀家を回り、寄付を仰がない代わりに第五銀行に貯蓄するよう呼び掛けたのです。
それでも業績は伸びず、橋本は前述の通り関係の深かった浅野総一郎に支援を願い出ます。第五銀行には開業当初から総一郎の長男・泰治郎 (後の二代目浅野総一郎) が取締役として参加しており、元々密接な関係にありました。
そうこうしているうちに橋本は城東電気軌道の計画から手を引くことになり、第五銀行を保有する必要がなくなりました。第五銀行株の大部分は浅野系株主が所有するようになったため、1916年4月に浅野財閥の機関銀行日本昼夜銀行に改組された(昼夜銀行とは小商工業者のために夜間も営業する銀行のこと)。
同行は1918年に浅野昼夜銀行に改称されますが経営は芳しくなく、浅野財閥の資金的バックボーンであった安田財閥の救済により再び日本昼夜銀行に改称した後、1943 年に安田銀行に吸収されました。現在のみずほ銀行のルーツです。
下足柄唯一の小規模な地方銀行であった吉浜銀行の系譜は、ひとつは地方銀行の優良児ともてはやされたスルガ銀行に、そしてもうひとつはメガバンクみずほ銀行につながっていくのですから、なんとも面白い話です。

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