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追い詰められた運転士がオーバーランを繰り返した後に速度超過で急カーブに突っ込み脱線衝突した事故の話


Notice

この投稿は2018年5月2日に個人ブログ「Rail to Utopia」で公開した記事を再構成したものです。

タイトルを読んで100人中99人は福知山線脱線事故を想起したことと思う。

2005年4月25日朝9時18分頃、JR福知山線の塚口・尼崎間を走行中の宝塚発同志社前行快速列車が速度超過により脱線転覆し、沿線のマンションに激突、乗客と運転士の合計107名が死亡、572名が負傷したJR史上最悪の鉄道事故である。今年、事故から21年を迎えた。

実は「労使問題によって追い詰められた運転士がオーバーランを繰り返した後に速度超過で急カーブに突っ込み脱線転覆して100人くらい死んだ事故」は、今から100年前のアメリカ・ニューヨークでも起きていたことをご存知だろうか。アメリカ鉄道史上最悪の事故と言われる「マルボーン・ストリート事故」である。

20世紀初頭のブルックリンの高架鉄道(出典:nycsubway.org

ブルックリンで何が起きたのか

事故が起きたのは、第一次世界大戦が停戦を迎える10日前、1918年11月1日の夜のことであった。

BRT(ブルックリン・ラピッド・トランジット)フランクリン・アベニュー線の南行列車はプロスペクト・パーク駅に到着しようとしていた。時刻は18時42分、5両編成の車内は家路につく人々で混雑していた。

CountZ氏作成の路線図(CC BY 3.0)を加工作成、右図は筆者作成

フランクリン・アベニュー線はプロスペクト・パーク駅からブライトン・ビーチ線に乗り入れる。本線線路を回り込むようにしてプロスペクト・パーク駅1番線につながる南行トンネルは、制限速度時速6マイル(時速10km)のきついS字カーブであったが、列車は時速30マイル(約時速50km)のままブレーキをかけずに飛び込んでいった。

1両目はトンネルの数フィート手前で脱線し柱に接触、続く2両目・3両目は左に大きく傾いてトンネル内の柱に激突し車体は屋根から削り取られた。死者のほとんどはこの2両に集中している。4両目・5両目は車体に大きな損傷はなかったものの、窓ガラスが割れて乗客が負傷した。

周辺の地名から「マルボーン・ストリート事故」と呼ばれるこの事故で、少なくとも93名、事故後に死亡した人を含めると102名が死亡したと言われている。

ニューヨーク市交通局に関する情報サイトから、ニューヨーク・タイムズ紙 1918年11月2日(土の記事を翻訳の上、引用しよう。

BRTで数十人が死亡、多数が負傷

ブルックリン高速鉄道会社のブライトンビーチ行き列車(使用されている中で最も古いタイプの木製車両5両で構成)が、パークロウからコニーアイランドへ向かうラッシュアワーの混雑を巻き込み、遅れを取り戻そうと急加速していたところ、昨晩7時少し前にブルックリンのマルボーン通りにあるトンネル手前の急カーブで脱線し、南北線路を隔てるコンクリート製の仕切りに突っ込んだ。

最初の車両に乗っていた男性、女性、子供のほぼ全員が死亡し、2番目の車両に乗っていた人々のほとんども死亡または重傷を負った。狭いトンネルに閉じ込められた残骸の中での救助活動は極めて困難で、死者の数え上げは遅々として進まなかった。午前11時までに85体の遺体が残骸から運び出され、警察はトンネル内にこれ以上遺体はないと発表していた。負傷者の多くは氏名が判明しなかったが、警察は少なくとも100人が負傷したと推定している。

(中略)

コンクリート壁

最初の車両はトンネルの入り口から数フィート手前で脱線し、北行き線路と南行き線路を隔てるコンクリート製の仕切り板の一端に激突した。仕切り板はトンネル入口前の路盤を直角に横切って投げ出された。他の車両は仕切り板を突き破り、2両目の車両はそれを粉々に砕き、列車全体がその残骸の上を通過して、トンネル内の線路を200フィート進んだ地点で停止した。

構造的な強度を全く持たない箱の中に詰め込まれたように、先頭車両の乗客たちは押しつぶされ、バラバラに切り裂かれた。脱出できた者は一人もいないとみられている。先頭車両を突き破った後、残りの車両はそれを仕切り壁に激突させ、残骸と乗客を線路沿いに散乱させた。後続車両の車輪はそれらの上を通過した。先頭車両の残骸は、木片と、砕け散りねじ曲がった鉄や鋼の破片だけだった。

2両目と3両目は、1両目との衝突後、線路から外れ、トンネルの天井を支える鉄柱に横向きに衝突した。鉄柱は高速で走行していた車両の側面に大きな裂け目を作り、立っていた乗客をなぎ倒し、中には頭部が胴体から吹き飛ばされた人もいた。

2両目と3両目の車両の左側面は吹き飛ばされた。衝突の衝撃で、多くの男女や子供たちがこれらの車両から柱やコンクリートの壁に投げ出され、即死したり、線路に落ちて車輪の下敷きになって轢かれたりした。車両から投げ出されなかった人々の中には、壊れた座席の鉄骨、砕け散った木材、そして車両の底部から突き出た鉄骨の上に落ちて死亡した者もいた。プラットフォームにいた乗客はほぼ全員が即死した。ある男性の遺体は、車両の下を通っていたが、衝突で折れて槍のように空中に飛び出した鉄棒に突き刺さった状態で発見された。

救助活動に参加した消防士によると、2両目と3両目の車両が横転し、片側が床になっていて、乗客は互いに重なり合っていた。死んでいる人もいれば、瀕死の人も、軽傷の人もいれば、無傷の人もいたが、皆、残骸にしっかりと挟まれ、鉄や木の破片に脅かされていたため、身動きが取れなかった。遺体にはわずかな傷跡しかなく、窒息死だったことが示唆された。小規模な火災が発生したとの報告もあったが、それらは残骸に閉じ込められた意識のある人々に恐怖を与えるのに十分な時間しか続かなかったという。

後方の2両の乗客のほとんどは重傷を負わずに済んだが、ほぼ全員がガラスの破片で切り傷を負ったり、座席から投げ出された際に打撲傷を負ったりした。この2両は乗客が非常に密集していたため、衝撃の力が分散されたのだ。前方の車両で何が起こったかを知ると、女性たちはヒステリックになった。

最後尾の車両は照明がなく、乗客がトンネルに入ると、そこは完全な暗闇だった。負傷者の叫び声に応えて前方の車両へ向かおうとした多くの人々は、2両目と3両目の車両への入り口を塞ぐ大量の壊れた木材とねじ曲がった鉄骨によって行く手を阻まれた。これらの車両にはどちらもアクセスできず、生存者には脱出手段がなかった。彼らは壊れた座席や、屋根、側面、床から突き出た木材に挟まれ、身動きが取れなくなっていた。死体に押し付けられる者もいれば、負傷者や気絶した乗客に押しつぶされて窒息死する者もいた。(後略)

事故現場のトンネル入口。中央が「コンクリート壁」(出典

運営会社のBRTは被害者への損害賠償の影響もあって債務超過に陥り経営破綻、BMTに改組された(最終的にはニューヨーク市に買収されている)。また現場となったマルボーン・ストリートは事故のイメージを嫌って、エンパイア・ブールバードに改称されるなど、ブルックリンの市民にも大きな衝撃と影響を与えた事故であった。

なぜ列車は速度超過でトンネルに突入したのか

この列車を運転していたアントニオ・エドワード・ルチアーノ(29歳)は、事故現場から姿を消した後、自宅で茫然自失としているところを逮捕された。

彼はBRTの職員であったが、その仕事は車庫内の車両を運転する配車係であって運転士ではなかった。なぜ運転士ではない人間が電車を操縦していたのか。実はBRTではこの日から、運転士組合が組合員29人の回顧に反対してストライキを実施しており、会社側は運転経験のある非組合員を集めて列車の運行を継続しようとしていたのだった(なお、事故発生から数時間後、ストライキは中止された)。

BRTに駆り出されたルチアーノは数時間の座学のみで、一度も経験していない営業列車の運転を命じられていたのである(通常の運転士資格取得には、90時間以上の座学と実地訓練が必要だった)。経験不足に加え、ルチアーノはスペイン風邪で亡くなった幼い娘の葬儀を行ったばかりで、自身も最近インフルエンザにかかるなど心身ともに弱っていた。

彼は事故の直前、複数の駅でオーバーランをしており、また信号の確認ミスから誤った進路に侵入するというトラブルを起こしていた。列車は脱線時、少なくとも時速30マイル(時速48キロ)で走行しており、制限速度の5倍の速度だった。事故の生存者はニューヨーク・タイムズの取材に対し「列車はS字カーブに進入する際もカーブ内でも減速していなかった」と証言している。

ルチアーノとBRT幹部は過失致死罪で起訴され、裁判は1919年3月に始まった。ルチアーノは裁判で電車を止めようとしたが止まらなかったと証言したが、非常ブレーキをかけた形跡はなかった。BRTが被害者・遺族と損害賠償の和解を進めたこともあり、1921年までに全員が無罪となった。結局、裁判では事故の原因は明らかにならなかった。

なぜ制限速度時速6マイルの急カーブがあったのか

元々はプロスペクト・パーク駅方面からフランクリン・アベニュー駅方面に向かう線路が本線であり、アトランティック・アベニュー駅方面に向かう現在の本線は、この事故の数週間前に開通したばかりだった。この連絡線の完成によってマンハッタン島方面に直通する新たな系統の運行が可能になり、利便性が大きく向上したのである。

すなわち、この急曲線は新しく直通運転を実施するための路線改良によって後から生み出されたものだったのだ。この経緯は、1997年の線路付け替えで急カーブとなった福知山線脱線事故の事故現場を彷彿させる。現在は、フランクリン・アベニュー駅から来る列車のほとんどはプロスペクト・パーク駅の4番線(一番右側の線路)を使って折り返し運転を行っているそうだ。

なぜ被害が拡大したのか

事故を起こした車両は車齢30年近い旧式の木造車両で、かねてから老朽化による安全性の不足が指摘されていた。この事故を契機にBRTは全ての車両を鋼製車体とすることにしたが、完了にはなお数年の月日を要した。

この5両編成の列車は進行方向から順に、電動車-付随車-付随車-電動車-電動車の順番で組成されていたが、本来は走行安定性のために電動車と付随車は交互に連結しなければならないと規則に定められていた。被害は2両続けて連結された付随車に集中している。

大破した2号車・3号車(出典

またこの当時、列車を自動で止めるTrip stop(ATS)や、運転士が何も操作しない場合に自動停止させるデッドマン装置は導入されていなかった。これらの安全装置の整備が進むのは、この事故の後のことである。

なぜ事故は繰り返されるのか

ニューヨークの地下鉄では、1991年にもレキシントン・アベニュー線のユニオンスクエア駅で大事故が発生している。この事故では、泥酔状態の運転士が大幅に速度超過させたまま駅手前のポイントに突入して列車が脱線転覆。1両目と2両目がトンネルの柱に衝突、車両が折れ曲がるほど大破して5名が死亡した。列車自動停止装置は設置されていたが、あまりに速度が出ていたため止めきることができなかったという。

Photo by Wikipedia(en)

正常ではない状態の運転士と非常識な監督体制によって引き起こされる大事故は、いつの時代も「あり得ない」ものとして糾弾されてきた。しかし、事故は二度三度起きてしまうのはなぜだろうか。

冒頭に記した通り、福知山線脱線事故の事故原因はこれらの事故と多くの点で一致しているが、そこに必要以上の意味を見出しても仕方がない。ただ個人の資質と組織の管理、そして安全対策に問題が多ければ多いほど、重大事故発生のリスクが増大するというシンプルな教訓があるだけだ。

事故から100年となる1919年11月1日、事故現場に次のような銘文が書かれた記念碑が設置された。

Remembering the Malbone Street Wreck

In memory of those who lost their lives near this location on November 1, 1918, when a wooden-bodied train carrying an estimated 650 passengers derailed and crashed under Malbone Street. Nearly 100 people were killed, and nearby Ebbets Field was turned into a makeshift hospital to care for the hundreds injured. This horrific accident led to meaningful reforms and advancements in transit safety, training and infrastructure. As a result of this tragedy, Malbone Street was eventually renamed and is today known as Empire Boulevard.

Dedicated by Brooklyn Borough President Eric L. Adams and MTA NYC Transit

マルボーン・ストリート事故を偲んで

1918年11月1日、約650人の乗客を乗せた木製車体の列車がマルボーン・ストリートで引き起こした脱線衝突事故で命を落とした人々を追悼します。約100人が死亡し、近くのエベッツ・フィールドは数百人の負傷者を治療するための臨時の病院となりました。この恐ろしい事故は、公共交通機関の安全、訓練、インフラにおける重要な改革と進歩につながりました。この悲劇の結果、マルボーン・ストリートは後に改名され、現在ではエンパイア・ブールバードとして知られています。

ブルックリン区長エリック・L・アダムス

MTA ニューヨーク市交通呈

2019年11月1日

冒頭に記した通り、マルボーン・ストリート事故は福知山線脱線事故といくつもの点で極めて類似している。いつの時代も人々は「事故は繰り返して貼らない」と固く決意するが、同じような事故は二度三度と起きてしまう。その時、私たちは「正常ではない状態の運転士と非常識な監督体制によって引き起こされた悲劇」という「物語」に押し込めて納得しようとしてしまう。両事故がよく似ていることに、それ以上の意味はない。意味を見出しても仕方ない。

確かに重大事故として顕在化するのは「あり得ない」と感じるほどの異常が積み重なった時だけだ。しかし、結論はシンプルである。個人の資質と組織の管理、そして安全対策に問題が多ければ多いほど、重大事故のリスクが増大する、ただそれだけのことだ。そして残念なことに個々の問題は怏々として、事故として顕在化するまで見過ごされてしまうのである。

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