3月10日、東京大空襲
東京で戦前から存在する唯一の地下鉄、銀座線は太平洋戦争る唯一の地下鉄、銀座線は太平洋戦争中の空襲被害を受けている。
最初の大規模な被害は1945年1月27日の「銀座空襲」だ。B29爆撃機が投下した250kg爆弾が銀座駅のトンネルに大穴を空け、1か月半にわたって運行が不能になった。浅草~渋谷間の通し運転は3月10日から再開したが、その直前、同日未明に行われたのが東京大空襲だ。
3月9日深夜、B29 爆撃機300 機が超低空から帝都上空に侵入し、日付が変わると同時に約2000 トンの焼夷弾による絨毯爆撃を行った。この空襲で41平方キロメートルが焼失、8万人以上が死亡した。
まず浅草が炎に包まれた。既に地下鉄の運転は終了しており、銀座線浅草駅1番出口に併設されていた浅草雷門ビル(2006年解体)の乗務員事務所に待機していた職員が消火活動に当たった。

この空襲による大火災は、浅草雷門の現在乗務区のあるビルディングをも猛火に包み、その火は隅田川を越えて向島に燃え広がった。
その猛火にもかかわらず、当夜勤務に当たっていた乗務職員は爆弾の落下する最中、火熱のために割れた飛び散った窓硝子から襲いかかる火焔をビル内に入れぬよう、合宿所の畳をはがし、これを水に浸して窓をふさぎ、強風のため倒れかかるこれらの畳をおさえ、水をかけながら必死の防火に挺身し、職場の焼失を防いだのであった。
出典:帝都高速度交通営団『地下鉄運輸五十年史』p.296
東京大空襲下の地下鉄については以前、記事にしたので是非ご覧いただきたい。
「熱くて呼吸苦しくおそろしさとで一心に祈る人が、つぎつぎと息たえて…」東京大空襲で生き延びた人が逃げ込んだ「意外な場所」 | News&Analysis | ダイヤモンド・オンライン
1945年3月9日夜から10日未明にかけて行われた「東京大空襲」から80年を迎えた。この空襲で東京下町のほぼ全域、現在の東京23区の3分の…
『地下鉄運輸五十年史』がおかしい
営団本社も焼失の危機に直面したことがあった。1927年に東京地下鉄道に入社し、運輸課の立ち上げから戦後の営団まで、地下鉄運輸に携わった生き字引の西川由造氏は、1977年に発行した『地下鉄運輸五十年史 総括編』に次のように記している。
昭和20年3月10日(元陸軍記念日)に、夜半の0時08分より2時37分頃までにB29の150機編隊が東京に分散波状攻撃の来襲があった。この当日の被害地域は山手線内側の各区全部と・品川・大田・世田ケ谷、渋谷、豊島、北、板橋、荒川、足立、葛飾、江戸川と東京の殆んど各区に亘って大部分の被害を受けた。このために死者約8万人、焼失家屋26万戸と空襲災害中最も大きな被害を受けたのであった。
下谷地区では、浅草方面より延焼してきた火勢は、大火特有の烈風となって次第に上野方面へ延焼して来た。既に稲荷町方面を越え、遂に営団ビル隣接の旅館や現在のパン屋も燃え出してきた。
営団では2階南側の窓から類焼の危険が多いので、2階の運輸部当直員は応援の上野駅員と共に一体となって、先ず南側の窓に近い机や椅子、書類戸棚(現在の営業部庶務課のある位置)を悉く急拠北側の窓付近に移し大きな酒樽を5個程置いてリレー式に水を運び、これを満水してバケツにより南側の空室になった場所をびしゃびしゃに水を旧いた。
又東南隅にあった運輸部長室も囲いを破裂して部屋内の凡ての物を北下方面に移して同様に水びしやにした。あっという間もなく南側の窓より3米に及ぶ大きな火炎が入ってきたので、バケツ消火班は必死となって大きなかけ声と共に手早く水をかけた。やがて隣家の火勢が弱まると共に・窓より入った火炎もなくなってきた。
若し2階が焼失すると、階段やエレベーターによって上層階の火災危険は大きくなるので、2階の防火でこのビルの災害を厄れたのである。2階の一同は空腹になったが食べるものがないので樽の水で乾杯し万才を三唱した。営団ビルから北側一帯の民家が戦災で焼失してないのは、このビルが防火壁の役目を持ったためである。
出典:西川由造『地下鉄運輸五十年史(総括編)』p.126-127
おそらく西川氏は現場で陣頭指揮をとったのであろう。生々しく詳細な語り口だ。
しかし第一復員省(旧陸軍省)資料課が1945年12月に作成した「全国主要都市戦災概況図」を見ると、営団本社と車両基地のある上野駅周辺は比較的被害が少なかったことが分かる。どうもおかしい。

そこで1991年に発行された『営団地下鉄五十年史』を開くと次のような記述がある。
2月24日から翌日にかけては、浅草、上野一帯の空襲があり、稲荷町方面からの火が営団本社のある上野車坂方面へと迫った。営団本社ビルの周辺には大小の旅館が密集していたが、南側に隣接する群玉舎という旅館や東側一帯の民家が燃え始めた。
営団で当日宿直していた数人の職員は、延焼のおそれがあった2階の西南の隅の部長室の仕切りを取り外し、机や椅子を北側に移し、数個の四斗樽にバケツリレーで水を運び、懸命に防火に努めた。群玉舎が焼け落ちてようやく火勢が衰え、同時に風向きも変り、幸い大事に至らなかった。
2月24日と25日に行われた別の空襲時のエピソードとして語られたものだが、部長室でバケツリレーをしたというエピソードは『地下鉄運輸五十年史』の記述と一致する。これはどういうことか。
銀座空襲以降に行われた都心を標的とした空襲で、特に被害が大きかったのは次の6回である。
ミーティングハウス1号作戦
- 2月25日 攻撃目標:神田・御徒町・上野
- 3月10日 攻撃目標:東京都心下町全域(東京大空襲)
- 4月13日~14日 攻撃目標:東京北部郊外(豊島・王子・滝野川・荒川)
- 4月15日~16日 攻撃目標:東京南部郊外(蒲田・大森)
- 5月23日~24日 攻撃目標:東京都心南部(目黒・品川)
- 5月25日~26日 攻撃目標:東京都心西部(山手大空襲)
『営団五十年史』の空襲は、米軍が「ミーティングハウス1号作戦」と呼称した2月25日の空襲を指すと考えられる。これはカーチス・ルメイの指揮下で、約130機のB29によって行われた大規模空襲である。特筆すべきは、この作戦が焼夷弾を主体とした最初の大規模空襲だったことだ。1号作戦は日中・高高度からの投弾だったが、同作戦の成功を受けて3月10日の「ミーティングハウス2号作戦」つまり東京大空襲は夜間・低高度から行われることになった。
なお24日にも空襲が行われている。『営団五十年史』は「2月24日から翌日にかけて」と述べているため、深夜に日をまたいで行われた空襲のような印象を受けるが、『東京都戦災誌』によると24日の空襲は、19時ごろに1機のB29が投下した爆弾と焼夷弾による小規模なものだった。
前掲の「全国主要都市戦災概況図」によると、「ミーティングハウス1号作戦」で焼失したのは下図の赤く塗られ区域である。

『営団五十年史』もおかしい
これをふまえて『営団五十年史』の記述に戻ると、こちらにもおかしな点がある。
2月24日から翌日にかけては、浅草、上野一帯の空襲があり、稲荷町方面からの火が営団本社のある上野車坂方面へと迫った。

25日の焼失範囲を拡大すると、上図のように稲荷町方面(南稲荷町)は燃えていない。東側で大火災が発生するのは東京大空襲だ。
実際、『営団五十年史』は続けて「西南の隅の部長室」でバケツリレーによる攻防戦が行われたと述べている。ということは、やはり火は稲荷町寄りの東側ではなく、南側から迫ってきたはずである。
営団本社ビルの周辺には大小の旅館が密集していたが、南側に隣接する群玉舎という旅館や東側一帯の民家が燃え始めた。
営団で当日宿直していた数人の職員は、延焼のおそれがあった2階の西南の隅の部長室の仕切りを取り外し、机や椅子を北側に移し、数個の四斗樽にバケツリレーで水を運び、懸命に防火に努めた。群玉舎が焼け落ちてようやく火勢が衰え、同時に風向きも変り、幸い大事に至らなかった。
なお『地下鉄運輸五十年史』は「東南隅にあった運輸部長室」と書いているが、これは誤りで『営団五十年史』編纂にあたり修正されたものと思われる。東南からも火は迫っていたのだろうが当時、運輸部長室がどこに存在したかは容易に確認できるからだ。
これを補強するのが唐突に登場する「群玉舎」、正式名称を「群玉舎上野館」という旅館だ(群馬と埼玉を足した「ぐんたましゃ」ではなく「ぐんぎょくしゃ」と読む)。東北線、常磐線からの「おのぼり客」御用達の旅館だったそうで、周辺には同様の旅館が林立していた。こうした歴史から、東上野には今でも非チェーン系のビジネス旅館が点在している。
群玉舎上野館
営団本社の住所は「東京市下谷区車坂町十二番地」、群玉舎の住所は「東京市下谷区車坂町九番地」である。1964年に住居表示が実施された際の新旧対照表を確認すると、営団本社が「十二番地」、隣接する建物が「九番地」であり、「西南の隅の部長室」で隣接していたことが分かる(赤字の「19」は新番地、「6」は新住居番号。現在のメトロ本社も「東上野3-19-6」である)。

もうひとつ錯誤が見られるのは「当日宿直していた数人の職員」という一文だ。「2月24日から翌日にかけて」という記述から、深夜の出来事のような印象を受けるが、前述のように2月25日の空襲は日中(15時頃)に行われている。ではなぜ「宿直」という表現が出てくるかというと、1945年2月25日は日曜日だからである。
実は『地下鉄運輸五十年史』は「運輸部当直員」と記しているのだが、『営団五十年史』は日付や部長室の位置を修正した一方で、なぜかこちらの表記は変わっている。しかしながら『営団五十年史』もまた、下記の点で東京大空襲のイメージに引っ張られているような印象を受ける。
- 2月24日から翌日にかけて
- 稲荷町方面からの火が営団本社のある上野車坂方面へと迫った
- 宿直していた数人の職員
以上、日本で私しか興味のない「疑問」の探求かもしれないが、社史あるいは当事者の記述であっても鵜呑みにできないこと、戦争の記憶を保ち、語り継ぐことの困難さが伝われば幸いである。

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