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サムライ、ロンドンの地下をゆく――地下鉄に乗った最初の日本人の話


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この投稿は2018年11月18日に個人ブログ「Rail to Utopia」で公開した記事を再構成したものです。

使節団の派遣

ロンドンに世界で初めての地下鉄メトロポリタン鉄道が開業したのは1863年1月9日のこと。日本はまだ幕末の世であった。

この年、徳川家光以来229年ぶりに上洛した13代将軍家茂に対し、朝廷は攘夷実行の確約を迫った。幕府はこれを受け入れるが、6月の長州藩による下関戦争、8月の薩摩藩による薩英戦争は攘夷論の限界を露呈した。9月には朝廷から長州藩と急進的攘夷派の公家を追放するクーデター「八月十八日の政変」発生、攘夷を巡る情勢が流動化した転機となった年であった。

下関を砲撃するアメリカ軍艦ワイオミング号

1858(安政5)年に列強五カ国(アメリカ、イギリス、オランダ、フランス、ロシア)と通商条約を締結して以降、幕府は外交交渉のために複数の使節団を海外に派遣している。1860(万延元)年にアメリカ、1861(文久元)年にフランス・イギリス・オランダ・プロシア・ロシア・ポルトガル、1864(文久3)年にフランス、1865(慶応元)年にフランス・イギリス、1866(慶応2)年にロシアと、欧訪に数カ月の船旅を要した時代にしては、かなりの頻度と言えるだろう。1867(慶応3)年にはフランスでパリ万国博覧会に出展、ナポレオン3世に謁見した後、イギリス、スイス、オランダ、ベルギー、イタリアを歴訪している。

このうち1865年の使節団は、外国奉行柴田剛中を特使として、横須賀製鉄所創設のための技師の雇い入れ、機械用具買付けの交渉を目的としてイギリス・フランスに派遣されたものだ。

右端が柴田剛中(1862年オランダにて)

メトロポリタン鉄道

メトロポリタン鉄道は電車の発明以前の開業なので、トンネル内を蒸気機関車が牽引していた。一部区間で電化が始まるのは1905(明治38)年のことである。

トンネルには排煙用の開口部が設けられていたが、乗客は車内に充満する煙と煤に苦しめられたという。そもそも、なぜそこまでして地下に鉄道を走らせる必要があったのだろうか。

地下鉄を描いた絵画(建設以前に描かれた可能性がある)(ロンドン交通局ウェブサイトより)

この頃、ロンドン周辺にはいくつもの私鉄が開業し、鉄道を使って通勤する人数も増え始めていたが、都心への鉄道乗り入れが認められていなかったため、乗客は市街地の外れにあるターミナル駅から都心まで乗合馬車に乗り換えなければならなかった。狭い道路は馬車や荷車でいつも大混雑した。

そこで、鉄道の都心アクセスと道路渋滞を一挙に解決する切り札として登場したのが、各ターミナルと都心を結ぶ鉄道を地下に建設するというアイデアだった。

ロンドンに地下鉄が開業して以降、初めての使節団となった彼らは、1865年12月21日(旧暦では慶応元年11月4日)に地下鉄に乗車している。これが記録に残る限り、日本人が地下鉄に乗車した最古の事例である。驚くべきはサムライが地下鉄に乗ったことではない。未知の乗りものを、きわめて正確に理解していたことである。

岡田摂蔵が見た世界初の地下鉄

この時のことを、使節団に随行した熊本藩士の岡田摂蔵が「航西小記」として記録に残している(国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能)。岡田は福沢諭吉の元で蘭学、英学を学び、慶應義塾の二代目塾長を務めた人物であり、「航西小記」という題は福沢の「西航記」に倣ったものである。

航西小記に「平地および屋上ならびに地下ともに蒸気車、ビショプという路都合三道なり」とあることから、彼らはビショップス・ロード駅、現在のパディントン駅から乗車したのだろう。パディントン駅にはグレートウェスタン鉄道(現在のナショナルレール)の頭端式ホームが地平に、メトロポリタン鉄道のインナー・サークル線のホームが地下に、ハマースミスアンドシティ線のホームが高架にある。

岡田はメトロポリタン鉄道のことを次のように表現している(一部の漢字をカナに改め読みやすくした)。

帰途蒸気車に乗して地の下を巡る。これはロンドン府の周囲をまわりたる道なり。

地の下を巡る蒸気車、これが「地下鉄」を言い表した最初の日本人の言葉であろう。彼はメトロポリタン鉄道建設の経緯を聞き、その意義と効用を書き記している。

すでに平地および屋上に線路を設け汽車の通路となされども、人民なお往返の便利欠くところあるが故に、両三年前、地下を掘り鉄路を敷き、往返の便利となす。よってロンドン府の繁華一増したりと云う。

柴田剛中は1861年の訪欧で鉄道を体験済みだが、岡田摂蔵は蘭学、英学を学んでいたとはいえ、初の訪欧で実物の鉄道を見たのも初めてだったはずだ。

この如き洪大の普請、世界またある事無しと語る。実に人力を以てかかる工を為す、鬼神もまた驚くなるべし。

地下鉄建設という世界最先端の大事業に驚嘆しながらも、岡田は「立体交差構造の都市鉄道」という地下鉄の本質を見抜いていたのである。

岡田は明治維新後は洋学の教育者として活動するが、残念ながら1876(明治9)年に病没し、日本の都市高速鉄道時代を目撃することはできなかった。なお、昭和戦前期に活躍し、後にソ連に亡命したことで知られる映画女優の岡田嘉子は岡田摂蔵の孫だそうである。

都市高速鉄道の芽生え

日本初の都市高速鉄道は、地下鉄道としては1927(昭和2)年に開業した東京地下鉄道(現・東京得メトロ銀座線)上野~浅草間だが、本質的には1894(明治25)年、外濠を活かした立体交差路線として開業した甲武鉄道市街線(現・JR中央線御茶ノ水~新宿間)である。市街線は1904年に電化し、5分間隔で電車を運行した。

四ツ谷付近を走る電車を描いた絵葉書(着色写真)

東京最初の都市鉄道は1882(明治15)年に新橋~上野~浅草間で開業した東京馬車鉄道だ。名前の通り、レール上の客車を馬が引く過渡的な交通機関であったが、路面電車の導入が遅れたため、約20年にわたり都心の交通を支えた。だが、明治の指導者たちの視線ははるか遠く、欧米先進国を向いていた。

東京を近代国家の首都にふさわしい都市に改造しようという市区改正論は、1888年(明治21年)に公布された東京市区改正条例によって具体化され、8代目東京府知事の芳川顕正を委員長とする東京市区改正委員会の設置に至った。

東京市区改正委員会は街路、公園、港湾といったインフラや、官庁街や市場など都市機能の整備といった都市のあらゆる要素について検討し、計画案をまとめていった。委員会で最初に鉄道が取り上げられたのは、1888(明治21)年11月2日に開催された第14回会議のことであった。

この会議で議題に上ったのは、1872(明治5)年に開業した官設鉄道(新橋・横浜間)のターミナルである新橋駅と、1883(明治16)年に開業した日本鉄道のターミナル上野駅を接続し、中間に中央駅(現在の東京駅)を設置する「中央鉄道」構想だけであった。当時の市街地の規模からすれば都市部の鉄道はこれだけで十分と考えられていたからだ。

しかし、委員の田口卯吉はひとつの提案をする。彼は市街鉄道について「今は必要なくても将来必ず必要となるのであれば、しっかりと計画を定めておく責任があるのではないか」と主張した。

田口卯吉の提言

田口は『東京経済雑誌』を主催して自由貿易論を主張していた人物で、欧米の事情に精通していた。そのため、ロンドンやニューヨークに市街鉄道が建設された経緯や効果についても熟知していた。

市街鉄道敷設を望むものあるに際し、その計画たる地中線なれば支障なきも、地上に軌道を敷設する場合は本会において議定したる道路に影響するの懸念あるに依り、道路改正の設計とともに市街鉄道敷設の線路も本会において議定しその設計に拠らしめんと欲す。

出典:市区改正委員会第14回会議議事録『東京市史稿 市街編第75』

せっかく巨額の費用をかけて道路を整備しても、その交通を遮るような鉄道が出来てしまっては意味がない。田口は、都心に鉄道を設ける際は、道路を遮ることのないように設計しなければならないというルールを設けることを提案した。

こうした問題意識は他の委員からも賛同を得ることになり、市街に地平線の鉄道を敷設してはならないという原則が確立された。これにより東京市内に鉄道を建設する際は、原則として高架線か地下線、あるいは築堤を利用して道路と立体交差させなければならなくなった。

これは当時の日本の状況からすると、非常に先進的で画期的な決定だった。蒸気機関車時代に都市高速鉄道を実現していたのは、鉄道先進国でもロンドンの地下鉄道やニューヨーク、ベルリンの高架鉄道などごく一部にすぎなかったからだ。

幕末を生き抜いた彼らの広い視野と深い洞察が、岡田ら先人たちの積み重ねてきた土壌に花咲いたのだということを再認識させられる。

参考文献:中川浩一「地下鉄の文化史」筑摩書房

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