電車通勤を中心としたライフスタイルは100年ほど前に登場しました。一面においては現在と比較しても遜色ないレベルで電車が走っていました。

| 型 式 | デ963形(国有鉄道時代) |
| 全 長 | 10.1m(定員32名) |
| 車体構造 | 木製 4輪車 |
| 集 電 | 架空複線式 直流600V(トロリーポール) |
| 製造初年度 | 1904(明治37)年 |
全長は10メートルで現在の車両1両の半分、定員は5分の1程度の小さな車両です。中央線は甲武鉄道の時代は「市街線」と呼ばれていました。当時の鉄道はほとんどが市街地を避けて建設されましたが、中央線は外濠の構造を活用して道路と立体交差させることで市街地の中心近くまで乗り入れることができたのです。
鉄道省が出版した「省線電車史綱要」に当時の運転状況が詳しく書かれています。現在の数字と比較すると、ふたつの驚きが浮かび上がります。
| 1906年頃 | 2026年現在 | |
| 編成両数 | 1両 | 10両 |
| 定 員 | 約30名 | 約1500名 |
| 所要時間 (御茶ノ水・中野間) | 28分 (平均25㎞/h) | 22分(各停) (平均33㎞/h) |
| 最高速度 | 48km/h | 95km/h |
| 最小運転間隔 | 6分 | 2分 |
ひとつは「輸送力」のあまりの違いです、当時の小さい電車は定員30名程度で、現在の50分の1でしかありません。一方で「速度」はそう変わらないことに気づきます。最高速度こそ倍ほど違いますが、駅間の短い御茶ノ水・中野間においては所要時間は7分程度の差にしかなりません。運転間隔も最短6分とかなり便利な路線だったことが分かります。
ところが、その歴史は直線的に現在に続いているわけではありません。1945年8月15日も鉄道は動き続けたと連続性ばかりが強調されがちですが、戦時中・終戦直後という不幸な時代においては、想像を絶する地獄のような状況が存在していたのです。

1945年11月29日
26歳の母<0歳児と2歳児連れ>、新宿から目黒までの間に0歳児が圧死、母は過失致死罪。
出典:柳沢健一『思い出の省線電車』
1945年12月21日
赤坂見附~青山一丁目駅間で超満員の渋谷ゆき電車が故障で立ち往生、救援車を待つ間に一人が窒息死する悲劇もあった。
出典:種村直樹『地下鉄物語』
関西でも同様の事故は起きていたようです。
“満員電車少年を殺す”の見出しに始まる記事には、昭和22年2月4日午前8時ころ東和歌山発天王寺行き省線阪和線内で13~4歳の少年が、超満員のため押しつぶされて絶命した事実の指摘がある。
出典:中川浩一「史実でつづる通勤・通学輸送」『鉄道ピクトリアル』451号
いわゆる買い出し列車の大混雑は都市部の電車も同様でした。それでも人々は生きるために食べるために鉄道に乗ったのです。
『思い出の省線電車』によると、鉄道当局は1945年10月の満員電車に関係する死者は31人と発表しています。つまり1日1人死亡するレベルで発生していたことになります。
昭和21(1946)年6月4日の朝、「通勤地獄」の典型であった中央線の上り急行電車から、乗客数名が転落して死亡もしくは行方不明になる悲惨な事故が発生した。場所は、東中野―大久保間、しかも現場は神田上水を橋梁で乗り越し、高い築堤に移行する地点であった。(中略)
ドアが外れたのは、満員の電車による強圧が木製の扉を破壊したのに起因する。転落して死亡した乗客の数は、神田川と名が変わった下流部で、水死体が発見された結果の逆算というのも、悲惨の限りである。
出典:中川浩一「史実でつづる通勤・通学輸送」『鉄道ピクトリアル』451号
戦時中から整備が追い付かないまま車両を酷使していたこともあり、扉が外れていたり開口部に落下防止のバーだけ付けただけの車両が多く走っており、また仮に扉が付いていても車内からの圧力で破損することは珍しくありませんでした。

1948年に入ると「復興整備電車」と呼ばれる戦前レベルに整備された電車が徐々に走りはじめますが、状況はすぐには改善しませんでした。
(1948年)6月中の事故多発で当局発表。6月4日、御茶ノ水駅で満員4両目扉が外れ、中大予科1年の小田さんほか数名16メートル下の川中へ転落。6月15日、横浜市生麦で桜木町行満員電車の扉が外れ転落し2人死亡。6月18日、常磐線三河島駅付近のモーター発火で窓から飛び降りた3名が重体。他に都電本所緑町3丁目で後部扉が開き女子2名転落うち1名死亡と扉事故が多かった
出典:柳沢健一『思い出の省線電車』
こうした状況が落ち着きを見せるまでにはもう1~2年の時間を要しました。
積み上げたものを壊すのは一瞬です。このような時代は二度と迎えてはなりません。
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